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留学生への応援メッセージ: Tran Ngoc Phuc 新田一福 さん (株式会社メトラン)

English Ti?ng Vi?t

 ベトナムから留学生として来日し、卒業後、医療機器メーカーに研修生として入社され、のちに(株)メトランを創業し未熟児向け「高頻度振動換気(HFO)人工呼吸器」の開発に邁進、治療現場で高い信頼を獲得されたTran Ngoc Phuc さん(日本名:新田一福)にインタビューをさせて頂きました。

 『私(Tran Ngoc Phuc)はサイゴンの高校を卒業後1968年留学生として来日しました。 大学卒業後、アジア文化協会の奨学金を受けながら医療機器メーカー(泉工医科工業)に研修生として入社しました。
「ベトナムに帰ったとき役立つように」と青木社長は、さまざまな製品の開発・製造の現場を体験させてくれました。当時結婚した妻(日本人の満子夫人)ともそのベトナム起業の夢をよく語り合った。

 当初、ベトナムの両親とは電話で連絡していましたが、やがてベトナム戦争が激化し、ついにサイゴン(現フォーチミン市)の家族との連絡が全く出来なくなりました。報道は多数の死亡を伝えました。 ベトナムの家族はどこに居るかも生死も全く分からなくなりました。連日のベトナム報道を見ながらどんどん絶望の淵に追い込まれました。
私はベトナムでは何不自由なく育てられ、スネかじりのわがままなドラ息子でした。 両親は私の希望を受け入れ私費留学生として日本に送り出してくれました。それだけに家族との連絡が取れないのはショックでした。帰る祖国も無くなりました。
当時、高い建物では窓の側に近づくことや、駅のプラトフォームを歩くことを意識して避けました。 自暴自棄になり死を選びそうな自分自身が怖かった。 一か月も会社に行けなかったが多くの方の励ましで日本に留る決意をしました。

 自分にしかできないテーマを探しました。人工呼吸器をやりたいと社長に話しましたら、開発品を抱えながら営業をやってみろと言われました。 
医療関係者にとって、外国文字の名刺を差し出す人間、特に当時のベトナム人が営業スタッフの一員としてやってくるのは珍しかったのでしょう。お会いする医師・研究者は私に興味を持ち、助言を貰うことが多く親切な対応をして頂きました。 客寄せパンダの立場でした。

 家族と連絡が出来ない極限状態を経験し、かつ新しい仕事の環境から、それまでの自分は死んだのだと、生まれ変わったつもりで働きました。
多くの専門家を回りました。 治療の現場に携わる方から教えて貰った生(なま)の体験の大切さと、人の繋がりは現在に続く財産です。

 1984年、妻を説得し、退職金と友人からの出資をもとに株式会社メトランを設立しました。私は未熟児の生存率を上げるという夢を追いかけ、肺に優しい「高頻度振動換気(HFO)人工呼吸器」の開発に邁進しました。
アメリカ国立衛生研究所主催の高頻度人工呼吸器コンペに優勝したのが会社の基礎を築くきっかけでした。呼吸器を次々と進化させました。その後、成人用HFO人工呼吸器の開発も成功しました。

----多くの方々との繋がりが現在に生きていると感じますが、初めての人とお付き合いする時のPhucさんのスタンスは?
「見返りを期待するのではなく、相手にまず差し上げなさい」。これは親から教わった家訓です。

ベトナム戦争の枯葉剤が原因で生まれた下半身がつながった結合双生児ベトちゃんドクちゃんの治療のために主治医として同行来日されたPhuong博士に通訳と医療機器に関する知識で私に協力要請があった。それを契機に、博士の強い後押しも有り1986年に18年ぶりに祖国ベトナムの土を踏み、長く会えなかった家族に再会しました。

 ベトナムに昔の面影は有りませんでした。ベトナムの家族も全てを失っていました。 生きる為に生活のすべ(術)を探さなければいけません。私は長男に生まれた使命感から、弟2人や妹を日本に呼び寄せ、医療関係や食品関係の技術研修を受けさせました。それら弟妹はベトナムに帰り、後に幸い事業を始めました。彼等と日本との絆も深まりました。家族を大切にし、助け合う気持ちは、日本を含めた東アジアどこも同じですね。

 今は世界中に人工呼吸器を販売しています。私は今後も「命」を守るためを第一に事業拡大を目指していきます。 もちろんベトナムの将来にも可能性を抱いています』


ベトナム戦争に翻弄され、絶望の淵を経験したPhucさんは、非常に前向きで、明るい方でした。
大学で剣道を教わった田村師範、研修生として入社し多くの感化を受けた泉工医科工業の青木利三朗社長、アメリカで開かれた学会がご縁で教えを受けた当時HFO研究の第一人者だったトロントのCharles Bryan教授、日本でHFO研究しておられた宮坂勝之先生、ベトナムのPhuong博士など数々の運命的出会い、恩人の名を懐かしそうに語られるお顔は感謝に満ち溢れていました。
Phucさんの『人間、死んだ気になって努力すれば、道は開けると信じています』との発言は絶望の淵をさまよい、その一方、世界No1の製品を生み出すために没頭し、寝る間も惜しんだ人間の悟りであり、自信であろうか。
古き時代の「海のシルクロード」はPhucさんのようなチャレンジ精神旺盛なベトナム人が未知の海路を開かれたのだろうと考えながら帰路に付きました。


Tran Ngoc Phuc 新田一福さん
1947年にベトナム・フエ近郊の裕福な家庭に生まれた。1968年、私費留学生として来日。東海大学工学部を卒業し泉工医科工業で研修生。その後、正社員。
1984年にメトランを設立。日本国籍取得。代表取締役社長。夢を追いかけ、肺に優しい未熟児向け「高頻度振動換気(HFO)人工呼吸器」を開発・進化させる。 成人用人工呼吸器の開発にも成功。 1986年には18年ぶりに祖国ベトナムを訪れる。
経済産業省の「元気なものづくり300社」に選定される(2007年)
第5回 渋沢栄一ベンチャードリーム賞 受賞(2009年)

http://www.metran.co.jp/index.html