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留学生への応援メッセージ:端木正和(もとき まさかず)さん

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 中国福建省福清から17歳で来日し、留学生として学びながら「中国情報局」(現「サーチナ」)を創業し、社長として発展させてこられた端木正和さんにインタビューをさせて頂きました。 お話は多岐にわたりましたが、留学生への応援メッセージを目的にお話を短くまとめました。

 『私(端木正和)が1989年17歳で日本に来た時は今の日中の架け橋になりたいとの志を携えていた訳では有りません。福建省の田舎から来日し、働きながら学びました。
当時海外に出るのは、現在の留学生のように全て親の丸抱えではなく出稼ぎと同じような状態でした。アルバイトで学費を稼ぎながら日々過ごし、余裕を作って、学ぶというのが基本でした。

 最初は皿洗い、次いで仲間から時間給のいいところを聞き、築地魚市場で働きました。朝は4時前に起きて新橋まで行き、バスも無い時間帯であったので当時480円であったタクシーに見知らぬ者同士が5人乗り、降車する時、運転手に各人100円玉を渡して、魚市場に通いました。当時私は、比較的体が小さかったので相乗り仲間には歓迎されました。

 職場でも最初はしゃべれる日本語は『はい』しかなかった。『いいえ』や『ない』という言葉は知らなかった。基本的には丁寧語しか覚えられなかったので『ありません』は知っていたが、『ない』と言われて意味が分からず「こんな簡単な言葉も知らないのか」と叱られたこともありました。

 働きながら日本語を覚えて大学卒業、就職、その後独立し、個人で輸入業を展開していましたが中国の実態を日本の皆さんに知って貰うべく「中国情報局」をスタートさせました。

 「創業当時いろいろ苦労が有ったでしょう」と問われると正直なところ私は苦労をほとんど覚えていません。 当然苦労は有ったでしょうが苦労と感じることなく過ごしてきました。幸い多くの日本人、中国人に助けられたから今日までやってこられたのだと実感しています。

――どのような心持ちで多くの人と接してこられたのでしょうか?
 生まれ故郷をはなれて働くには、その国の風土に馴染まない限り周りの信頼は得られないと思います。
どこの国でも他国の出身者を差別することは有ると思います。
日本を含め、その国に来た外国人を、言葉の問題もあり、自分たちと違う人間として差別(区別)するのは、ある面、自然なことでしょう。
少し差別があるという現実はあらかじめ認める方がよい。その前提のもとに生きていくのが現実的な対応だ。
私は差別意識のあることは仕方のない事と理解し、中国出身というハンデを前向きに捉え、それをバネにして日本社会に溶け込む努力を重ねました。
 しかしそのような差別意識はあるが日本社会および日本人は優しいと思う。

――創業時の壁を乗り越えて来られた秘訣は?
 現在、成功しているかどうかは別として、私は『感恩(人の好意や恩義に感謝すること)』と日本語の『一生懸命』という言葉が好きで、強く意識しています。 その感恩の気持ちが、相手に伝わったからこそ、多くの人に助けて貰えたと思っています。

 助けて頂いた方は、年齢的にも経済的にも人生経験もずーっと上の方で相手を見る眼が肥えている。この目上の方々は相手の人物や嘘はすぐに見破るし、礼儀正しい青年が好きです。人に助けて貰ったことを感謝する、『感恩』の気持ちを相手に伝える努力も大事だと思います。
ですから若い時から『感恩』を習慣づけることは特に大切と感じます。

 サーチナ(旧・中国情報局)は中国を日本に紹介することからスタートしたが、今は中国人に日本の事を知って貰う方に力点を移しつつある。中国人の購買力が高まる中で、日本の優れた製品を中国に知って貰うことは両国にとって大切であり、やはり相互に知りあうことが共に発展することに繋がると考えます。』


 来日して21年が過ぎ、端木氏は今では日本と中国の文化や考え方の違いを熟知しておられ日本語も堪能で、謙虚・控え目、誠実な人柄と感じました。途中語られた『私は60歳になったらお坊さんになるのだと子供の時から漠然と考えていました。出家に憧れていました。なぜか理由は分かりません』は端木氏の夢であり、覚悟であろうか。 『感恩』そして『一生懸命』は氏が生まれながらに共鳴する生き方であり、生きる術(すべ)でもあるのだろう。

 中国の同郷の高僧、隠元大師(日本の黄檗宗開宗)、百丈懐海禅師を語る眼はキラキラと輝いていた。 百丈禅師の『一日(いちじつ)作(な)さざれば、一日食らわず』という「労働することを通して豊かな人間性も育まれていく、という自らを律した自発的な言葉」を子供の時から心に刻んで育ったのが今日多くの人に支持されサーチナ発展に繋がったものと感じました。
長いインタビューの終わりに、無理をお願いした色紙への言葉は『恩来』とまたもや『恩』でした。


端木正和さん
 1989年、17歳の時に福建省福清市より就学生として来日。アルバイトで学費を稼ぎながら1991年大学入学。卒業後、日本で商社に就職。1998年5月に退職して、個人で輸入業を展開していたが「日本と中国の間の壁を取り払いたい」「文化を越えた相互理解を実現したい」との想いから、同年6月に中国情報局(2008年6月、開設10周年を機に社名であるサーチナに名称変更)を開設した。 1999年4月学習院大学大学院に入学、電子商取引を専攻。同年9月に株式会社サーチナを設立した。
以降事業を拡大して現在に至る。

http://searchina.ne.jp/